若桜町の歴史・文化・観光スポット特集

若桜町は因幡の奥座敷として鎌倉時代以降城下町として栄え、江戸時代には若桜宿として栄えた歴史・文化にあふれる町です。

「若桜」の地名については、第17台天皇である履中天皇(400~405)に奉仕した天皇直属の天皇を支える集団の若桜部(わかさくらべ)がこの地に居住したことから、若桜と呼ばれるようになったと考えられています。

若桜町の歴史・文化・観光スポット特集

城下町・宿場町として栄えた若桜宿

鎌倉時代、駿河の国(静岡県)から赴任した矢部十良暉種が鶴尾山(つるのおやま)に城を築いて以降、若桜の基礎ができました。戦国時代から江戸時代初期に城下町として整備された若桜の町は、因幡から但馬、播磨、美作へ至る交通の要所であったことから、宿場町として大いに賑わいました。元禄14(1701)年の「御国絵図改」の際、「若桜宿」とされ、一定数の宿屋や馬が備え付けられていたとの記録があります。

若桜鬼ヶ城跡

正治2年(1200年)矢部氏によって築城され、以降は木下氏、山崎氏が城主として移り住みました。

元和3年(1617年)に一国一城令によって、廃城となり、石垣が一部破却されているが、廊下橋虎口や行き止まり虎口という全国的にも珍しい造りであることから、平成20年3月に国史跡とし、指定されました。

蔵通り

明治18年に若桜宿のほとんどを焼き尽くす大火災が発生した際、11か条にわたる宿内の取り決め(現在なら都市計画大綱とでも呼ばれるもの)が決議され、その取り決めの中のひとつとして、母屋から出た火事の延焼による寺の消失を防ぐ目的で、この場所には蔵以外のものを建てることが禁止され、寺の本堂や庫裏は、道路から約16間(約30m)離れたところに立てなければならないと決められた結果、この通りが形成されました。

この蔵通りには、外から見えるだけで20の土蔵があり、白壁土蔵群として約300mにわたり商家の土蔵が連なっています。特徴として、妻側を小路に向けて立っており、土蔵への直接の出入り口はこの通りにはなく、母屋側に設けられています。

蓮教寺(日蓮宗)、正栄寺(浄土真宗本願寺派)、西方寺(浄土宗)、壽覚院(浄土宗知恩院派)の4つの寺が連なっており、各寺院の庭には様々な句碑が建っています。

仮屋通り

仮屋通りができたのも、明治18年の大火事があった時の若桜宿会議で、「家は道路端から1丈1尺(約3.3m)離れて土台を作ること。その土台から4尺(1.2m)の仮屋(ひさし)を付け、さらに2尺(約60㎝)の川(水路)を付けることなどが決められました。今は仮屋も途切れ途切れになっていますが、当時は700mから800m連なっていたようで、雨や雪の日には傘もささずに歩ける現代のアーケード通りのようなものでした。

なおこの通りは、「若桜清流通り」として国土交通省の「夢街道ルネサンス」のひとつに認定されています。

若桜郷土文化の里

若桜宿の東側一帯には、県や町の文化財や文化伝習施設などが建ち並んでおり、「若桜郷土文化の里」と呼んでいます。


【歴史民俗資料館】

旧山陰合同銀行若桜支店の社屋を譲り受け移転復元されたものです。この建物は、明治時代の典型的な土蔵造りで。豪商の面影を伝えており、当時、銀行の威信にかけて銘木を駆使した斬新な設計で、変化に富んだ土蔵の美しさが表現されています。


【無動山永福寺の山門】

若桜町長砂地区の無動山永福寺跡からここに移転復元したもので、県の保護文化財に指定されており、大日如来像を本尊としていた寺として知られています。


【三百田氏住宅(さんびゃくだしじゅうたく)】

若桜町の吉川集落より移築復元されたもので、その建築様式は、因幡地方の特徴である入母屋茅葺き屋根です。当家は古くから吉川の庄屋を務め、元禄7年(1694年)に建てられたということです。


【たくみの館】

山村文化保存伝習施設で、仮屋通りを再現した建物となっています。伝統工芸である木地挽物などを紹介する施設です。

若桜神社

若桜神社は、松上大明神、熊野権現、八幡宮を祭神とした若桜の氏神です。代々の若桜城主が崇敬したと言われており、神社には、後醍醐天皇短冊(巻物)や名和長利の鉾、平の盛嗣の陣笠など、多数の宝物が伝えられています。

神社の大祭は”わかさまつり”として親しまれ、毎年5月3日が例祭日となっています。御輿を中心とした行列や獅子舞などが繰り出す御幸祭は隔年で行われており、神社の200余りの石段を下って御幸行列が始まります。

境内は、広くシラカシやモミの原生林によって鎮守の森が形成されており、「若桜神社社叢」として鳥取県の天然記念物の指定を受けています。

若桜弁財天(江嶋神社)

古くから「弁天さん」として親しまれ、商売繁盛や縁結びの神様として知られており、若桜鬼ヶ城の歴代城主である矢部氏、木下氏、山崎氏にも祈願所として大切にされていました。本殿に続く参道は、生い茂る杉の大木に囲まれて、神秘的な空気が漂います。「境内は幽遂閑雅(ゆうすいかんが)にして、この地を踏めば霊氣に触れ心身自ら澄み、霊妙なる神徳に帰する」と言われており、現地へ足を踏み入れていただくと、その言葉の意味を身体で感じられます。

毎年9月の初巳の日に大祭が行われます。

弁天大祭

若桜橋

昭和9年に完成した鉄筋コンクリートのアーチ橋です。当時の設計図など様々な工事記録が鳥取県公文書館に保管されており、土木学会選奨土木遺産に選ばれています。また、国の登録文化財としても選定され、当時を象徴する近代文化遺産としての価値が高く景観やデザインにも優れています。

忠魂碑

重さ56トンもある県内でも有数な規模の忠魂碑です。

クレーンなどの機材がなかった当時、台石は人夫1200人余りと小学校の児童200人で糸白見集落から約1か月かけて運び出し、上に乗る碑石は湯原集落から1500人以上の人夫を用いて運搬され、碑石の据え付けには約900人が動員されたそうです。

不動院岩屋堂

岩屋堂集落にある「不動院岩屋堂」は天然の岩窟内に建てられた舞台造りの建築様式で、国の重要文化財に指定されている。鳥取県三朝町の「三仏寺投入堂」・大分県の龍岩寺奥院礼堂とともに「日本三大投入堂」にも数えられます。鳥取県では数少ない中世の寺院であることから、国指定重要文化財となっています。

また、本尊不動明王座像は弘法大使が33歳の時の彫刻とされています。

隣接する岩屋神社は、もと須賀ノ山(氷ノ山)に鎮座していた須賀神社を遷宮したとか、不動院岩屋堂建築の際に、飛騨の匠が施工したものとの伝承があります。

近隣には平家の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や数々の五輪塔がある墓地群があり、県内では珍しい納骨壺を備えた高さ90㎝の五輪塔があります。

落折の平家伝説

落折集落は平家の落居村と呼ばれ、全戸が平家性を名乗っています。以前は「平」姓で明治初期の名字届出の際に「平家」を名乗ったといわれています。

源平合戦で源氏の追手から逃れるため、平清盛の異母兄弟である平経盛(たいらのつねもり)が20余名の家来と一緒に隠れ住んでいたといわれてます。

集落奥には隠れ家として住んでいたという大小の岩が、幾重にも重なり合っている経盛隠棲の洞窟があるが、昭和18年の鳥取地震の際に岩が崩れ落ち、現在は奥に入ることができません。近くには馬かくしの谷があり、集落内には、経盛の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されており、数基の五輪塔は配下の武将の墓といわれています。